土崎神明社例祭 土崎港曳山まつり

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【港ばやしについて】

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土崎神明社祭の曳山行事の囃子は、「港ばやし」と呼ばれています。 港ばやしがどのように生まれたのか、その経緯は定かではありませんが、関ケ原の戦いの後、秋田へ国替えされた佐竹義宣の前の城下町であった、現在の茨城県常陸太田市には、「天神囃子(てんじんばやし)」という「港ばやし」の曲の一部と非常に似ている囃子が伝えられており、佐竹氏と共に秋田に移り住んだ人たちの芸能文化と、秋田に、もともとあった芸能が結びついて現在の港ばやしが生まれたとも考えられます。

 

港ばやしは、戦前までは、伝統芸能としての家元制度、あるいは、世襲という形で受け継がれてきましたが、戦後は、港和会(こうわかい)(昭和22年結成)、娯笑会(ごしょうかい)(昭和30年結成)、しぶき会(昭和31年結成)、若波会(わかなみかい)(昭和49年結成)の各会派から構成される土崎港ばやし保存会(昭和55年結成 会員約150名)によって保存・伝承されています。

 

土崎の港ばやしには、現在、「寄せ太鼓」「湊ばやし」「あいや節」「湊剣ばやし」「加相ばやし」の五つの曲があります。昔は、「丹前ばやし」「浴衣ばやし」という曲もありましたが明治後期から大正の頃に途絶えてしまいました。囃子の曲は、曳山の出発や神興の送迎の時などに演奏される曲である寄せ太鼓と、主に行進曲として演奏されるその他の曲に分けられます。それぞれの曲は祭りの全体の流れのなかで、場面にあった見事な選曲が行われています。

 

【寄せ太鼓】

 

7月20日と7月21日の昼、穀保町の御旅所に神興を迎え、また送る時まで演奏されます。各町内の曳山がそろい、神興の到着に一斉に鳴り響く「寄せ太鼓」は曳山行事の大きな見所の一つです。「寄せ太鼓」の名前は、大勢の人を寄せ集める時に、演奏される曲であることからこの名前がつけられました。お祭りの雰囲気を盛り上げる、にぎやかで威勢の良い曲です。また、この曲の太鼓の打ち方や、打ち出しのリズムが常陸太田市の天神囃子に似ていると言われいます。常陸太田市は、関ヶ原の戦いの後に秋田に来た佐竹氏の前の城のあった所であり、寄せ太鼓は、佐竹氏の国替えに伴って、常陸(茨城県)から秋田に伝えられたものかもしれません。なお、「寄せ太鼓」は、「寄せばやし」と呼ばれる時もありますが、正式には「寄せ太鼓」と呼びます。

 

 

【湊ばやし】

 

7月21日、穀保町の御旅所から神興を見送った後、各町内の曳山は本町通りを相染町に向かいます。これを「御幸やま(みゆきやま)」と呼びますが、湊ばやしは、主に、この「御幸やま」の時に演奏される行進曲であり、港を表現した代表的な曲であることから「本ばやし」とも呼ばれています。寄せては返す波の如く、勇壮豪快で、港っ子の心意気を伝える曲です。

 

 

【あいや節】

 

「御幸やま」により相染に到着した各町内の曳山が夜、それぞれの町内に帰ることを「戻りやま」と言います。「あいや節」はこの「戻りやま」で演奏される曲です。祭りのフィナーレである「戻りやま」にふさわしい哀調のある曲です。盆踊りの曲がもとになっているとも、全国に様々な形で伝えられている「ハイヤ節」を起源としているとも言われています。なお、この3曲のほかに、「湊剣ばやし」、「加相ばやし」が復活・復元され伝承されています。

 

 

【湊剣ばやし】

 

「御幸やま」の時を中心に演奏される、リズミカルなテンポの曲です。佐竹氏が出陣の時の戦勝祈願としてはじめられた囃子とも、平鹿地方の狐ばやしが起源とも言われています。大正時代の中ごろに一時、途絶えましたが、昭和31年に復活・復元されています。昭和49年に剣の舞、扇の舞が振り付けられています。

 

 

【加相ばやし】

 

主に「御幸やま」の時に演奏される曲です。明治22年、土崎港町に隣村の相染新田村が合併された時に創作されました。「加相」とは「相染が加わる」という意味であり、曲の前半が、相染新田村に合併前にあった囃子、後半が湊ばやしという構成になっています。湊剣ばやしと同じく、一時、途絶えかけましたが、昭和31年、復活・復元されました。

 

 

※参考資料 秋田市教育委員会発行「土崎神明社祭の曳山行事伝承活用テキスト」より

 

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